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長谷川賢:「francer」

フランス全般に関する旅行情報や各地方や町の楽しみ方など、特に「地方色の豊かさ」をテーマに村めぐり、ワイン、地方文化などをテーマに綴ります。





第33回:王になる街 ランス


(ランスの大聖堂)

フランス北東部、パリより東へ。TGVに乗れば一時間足らずで着いてしまう街、ランス。中でもジャンヌ・ダルクに導かれたシャルル王太子が、ランスの大聖堂で戴冠式を行い、シャルル7世として王になった話は有名です。

この地方は、フランスの地方でいえばシャンパーニュ・アルデンヌ地方にあたり、何よりもまず発砲ワイン、シャンパーニュの産地ということが頭をよぎります。

しかし、ランスという街の名を聞くと確かにこの町はシャンパーニュの中心地でもあるのですが、個人的には、やはり歴史的な部分の方がイメージとして強くなります。

とにかく街としては名実ともにシャンパーニュ・アルデンヌ地方の中心地、と言いたいところですが、実は実態は確かにランスがこの地方で最も大きな都市ですが、地方庁所在地はシャロン・アン・シャンパーニュ、ランスは地方庁所在地でないだけではなく、県庁所在地でもないのです。

これには私もびっくりしましたが、そこにもこの町が辿った歴史があるというのが興味深いところ。地方制度が作られ始めたフランス革命以後、大革命が「フランス王の戴冠式の伝統を保持する町」を中心都市とすることを避けたとされているようです。

さて、街のシンボルはやはりランスの大聖堂。バランスの良いたたずまい、凛とした2つの塔、光を入れる大きなバラ窓と多数の彫刻群はやはり見るものを圧倒します。

ランスは古くから大修道院が設置されており交通の中心だけではなく、宗教的な意味でもこの地方の中心的な町だったのですが、今の大聖堂の原型が作られたのは13世紀。

街の立地上、第一次世界大戦では戦禍を被り多くが破損してしまったようですが、今では大部分が修復されており往時の姿を取り戻していると言えるでしょう。

正面に立つとやはり他の教会と同様、タンパン彫刻に目がいきます。中央が「聖母の一生と栄光」左が「キリストの苦難にあずかる聖人と殉教者」右が「世の終わり」を示した彫刻。

しかし、この彫刻群の中で最も有名なのは、左側に並ぶ4つの彫像の一番右にある天使の彫刻。世界的に有名な「微笑みの天使」です。

造られたのが13世紀であることを考えると、まだまだ彫刻や絵画などに人間味をあまり感じられない作品が多い中、これほどまでに人間らしい顔つきをしている作品は珍しい。


(微笑みの天使)


(中心が洗礼を受けるクローヴィス)

そして、大聖堂の上部、中央にある彫刻が、フランスの最初の王と言えるメロヴィング朝創始者クローヴィスであり、その傍らには彼に洗礼をほどこした聖レミと、クローヴィスの妻クロティルドの彫刻があります。

ランスと言えば、まずフランス王の戴冠のお話となりそうですが、その布石となる、このクローヴィスの話は外せません。

この聖レミという人物は、495年頃にランスの司教に任じられたと言われていますが、歴史上の事実はよくわかっていない。

このような昔の宗教的な伝説には諸説がありますが、その中でも伝説の宝庫と言われているのが『黄金伝説』です。聖レミに関しての記述もあるので、それを参照すると

当時、ゲルマン民族の一派、ヴァンダル族の蛮族が一帯を荒らしまわり、教会の平和がおびやかされていたとき、盲目の隠者が祈っていると天使が現れ「シリーヌという名の女に子が生まれ、レミと名乗り、やがて悪人どもの手からこの国の民を解放する」と告げたそうです。隠者がすぐに、シリーヌのもとに赴いて、このお告げを知らせますが、女はすでに老齢であり、子供を産む希望は捨てていると答えます。しかし、盲目の隠者は「あなたに子が生まれて、あなたの乳房をまさぐることがあれば、あなたのその乳で私の眼をこすってくれるがいい。そうすれば、わたしはすぐに視力をとりもどすだろうから」と答えました。実際に、言った通りのことが起きたのです。

この時に生まれたレミは若い時から修道院に入り、22歳で選ばれてランスの大司教となります。レミ(Remi)の名前がランス(Reims)の由来という説もあるくらいですが、都市の名はレメス(Remes)族に由来するという説のほうが有力だとされています。彼にまつわる奇跡では、とある婦人の家に招かれた際、たまたまブドウ酒が切れてしまう。レミが葡萄酒の樽の上で十字を切ると、樽に葡萄酒があふれたといいます。まるで、キリストのカナの婚礼の場面を彷彿とさせるエピソードが残っています。レミは77年間もランスの司教の座に留まり、100歳近くになって天へ帰ったといわれています。この間に先に登場したフランク族のクローヴィスとの出会いを果たすのです。

この時代のフランスは、まだまだ不明な部分が大きいのですが、世界史上では481年にフランス最初の王朝メロヴィング朝が起こったとされています。この時代は西ローマ帝国が滅びて間もない時代となりますが、時のフランス(当時はまだガリアと呼ばれていた)は、まだまだ沢山の人々が入り混じっており、ローマの最後の統治者シアグリウスをはじめとして、ロワール河からスペインにかけては西ゴート族、ローヌ河とソーヌ川の流域にブルグント族、アルザスにアレマン族、そして英仏海峡からライン河にいたる地域にフランク族が分割統治をしていました。そのフランク族の一支族トゥルネのサリ族の族長がクローヴィスの乳シルデリック1世であり、481年、父のあとを継いだクローヴィスは王位につき、シアグリウスを破った後に、ライン河中流域でアレマン族と衝突しました。これをトルビアックの戦いと呼ばれています。

実際にはリプアリ族とアレマン族との戦いだとされていますが、民間伝承では、フランク族とアレマン族との戦いとしてフランス人の心に刻まれています。というのは、この戦いで、アレマン族をライン河の向こう側においやったことが重要なのです。この戦いの後、フランク族はブルグント族と協力し、西ゴート族をピレネーの向こう側(スペイン)へ押しやり、今のミディピレネー、アキテーヌ地方を手に入れます。さらにブルグント族の支配下であった今でいうブルゴーニュ地方やプロヴァンス地方をも支配下にいれ、ほぼ現在のフランスの形が出来上がります。

この時まで、ガリアはまだ心情的にローマにくみしていました。そもそも「ガリア」とはローマ人が呼んでいた名称です。しかし、フランク族の征服によって、この地の人々が「一つの王座の下に結集した」と言え、これをフランスの始まりということができるでしょう。ちなみに、ライン川の向こうに追いやったアレマン族は、今でいうドイツに追いやられたわけですが、このアレマン族が、フランス語でいうドイツ「アルマーニュ」、ドイツ人「アルマン」の語源となっているのです。

さて、話は戻りフランク族とアレマン族の戦い、トルビアックの戦いに戻りますが、クローヴィスがブルグント族と協力できたのは、彼の妻が美しく愛情に富んだ女性で、ブルグント族の王ゴンドボーの娘、クロティルドだったからです。クロティルドは熱心なローマ・カトリック教徒でした。しかし、夫クローヴィスは異教徒であったため、当初クロティルドは夫の回心のために、日夜祈ってやまなかったと言われています。そのクロティルドの心の支えとなったのが、聖レミであり、パリにその名を残す彼女の友達ジュヌヴィエーヴだったのです。

異教徒クローヴィスの心も簡単には折れませんが、トルビアックの戦いで苦戦していたクローヴィスは思わず「クロティルドの神よ、もしおまえが私に勝利を与えてくれるなら、私は思えを信じよう。洗礼も受けよう」とつぶやいてしまいます。こうしてトルビアックの戦いはクローヴィスの勝利に終わり、彼は誓いを守りました。ランスのレミを訪ね、受洗を申し出たのです。それは496年、クリスマスの日でした。彼とともに3000人の兵士が洗礼を受けたと言われています。聖水を頭にたらして洗礼を行いますが、この時のシーンがランスの大聖堂上部の彫刻として刻まれているのです。そして、この時クローヴィスおよび、その兵士たちはキリスト教の正当とされるアタナシウス派に改宗しました。

しかし、ブルグント族も西ゴート族も多少なりとも、初期キリスト教の中で最も大きな異端となったアリウス派を信仰していたのです。正統派キリスト教(アタナシウス派)は、父と子と聖霊の三位一体の神を説きますが、アリウス派は父なる神のみが創造主であり、子なる神キリストは神に造られたものに他ならないという説という違いがあります。クローヴィスの勝利、そして、ガリアの統一はフランスの国土におけるアリウス派の敗北をも意味したのです。ローマ・カトリック教徒となったフランク王の君臨は同時にまた、この地がランスの聖レミの宗教に服することに通じ、ガリアの全ての地方においてクローヴィスは司教たちの共感と協力を得ることなりました。これにより、全土に及ぶ支配権を確立することができたのです。

ちなみに、クローヴィスの洗礼において、よく語られる逸話は、ハトが聖なる香油をもたらす話です。一行が洗礼盤のところへやってきた時、聖なる香油をたずさえている僧が、群衆にへだてられて、聖式を執行する人のそばばで辿りつくことができませんでした。大司教が目を天にあげて、この緊急の必要に際して主の助けを願うと、突然、聖油の入った瓶をくちばしにくわえた一羽の白いハトがあらわれて、大司教の手の届くところまで飛来した、という話です。この場面は聖レミによるクローヴィスの洗礼を表す美術作品によく使われ、ランス大聖堂北側戸口のタンパン彫刻であったり、後陣祭室のシャガールのステンドグラスでも見ることができます。

このようにして、フランス王の戴冠は、フランク族の習慣から出来上がったものなのですが、当初から常にランスだったわけではありません。ノワイヨンやオルレアン、サン・ドニ、シャルトルなども戴冠式の場として使われることもありましたが、1059年のフィリップ一世以後は、ほとんどすべてのフランス王がランスへ馳せ参じるようになりました。

ランスの大聖堂は、街の立地ゆえに、第一次世界大戦、第二次世界大戦で大きな被害を受けています。大聖堂だけではなく街そのものがなくなってしまうほどの被害をうけましたが、その後の修復で以前の姿を取り戻しています。

大聖堂の前の広場は広く、その堂々たる大聖堂を見上げるのに調度よい広さ。近づくと2300体以上という彫像を眺められますが、中でも微笑みの天使は外せない観光名所の一つと言えるでしょう。

大聖堂の内部にはいると、やはり荘厳なゴシックの雰囲気に包まれますが、オリジナルのステンドグラスが少ないのは少し残念なところ。戦争の被害がなければ、さぞ美しいステンドグラスが残っていたのだろうと思ってしまいます。しかし、後の時代に作られたシャガールのステンドグラスは必見です。


(シャガールのステンドグラス)


(トー宮殿内にあるタペストリー)

大聖堂の横には、Tの字の形をしていることから名付けられたトー宮殿があります。元々は司教館であり、フランス王の戴冠時にも利用された歴史ある建物ですが、現在では大聖堂の宝物館のようになっています。

戦争によって破壊された大聖堂に残った彫像のオリジナルやタペストリーなど、内部に展示されているものはすべてオリジナル。

中でも12世紀の聖杯、カール大帝が使っていたサファイヤのペンダント、聖人の骨壺についていた飾り、そして、ルイ15世の戴冠時の衣装などが展示されており、かなり見ごたえがある博物館になっています。

もうひとつ重要な世界遺産はサン・レミ聖堂。大聖堂やトー宮殿からは少し離れますが、前述の司教、聖レミの遺体が安置されている聖堂です。

内部には大きなお墓があり、ここに聖レミが安置されています。ランスの大聖堂と比べると、やはり大聖堂のほうが見ごたえはありますが、このサン・レミ聖堂もなかなか見ごたえのある大聖堂です。

実は今回、ランスの街を見たのはたかだか4時間ほど。それでもこんなに書くことができてしまいました。是非是非、ゆっくりと見てみたい街だと感じました。きっとまた行くことになるでしょう。


(サン・レミ聖堂の聖レミのお墓)




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